昼休み

いつもしずかなうたがながれているきがしていた。


夏と、いう言葉が、いつからか力を失ってしまったので、切望する。喉の渇きは、癒えぬ。早いだけのメロディも、高いだけの音も、うるさいだけの音楽も、等しい。非可逆圧縮された記憶が、いびつにうごめいては、前進を阻害する。まぁね、前に進んでいるかもわからぬのだけれども。考えあぐねることに意味は無い。けれど、意味はないからと言って、やらないと言うのは、駄目だ。ひとまず、一般論。自らの論理を吐けば否定される。否定されればすぐに折れちまう。自己肯定から俺は始まっているくせに、すぐに否定しようとしちまうから、そこに齟齬が生まれる。素晴らしき人々を、遠くからは祝福する。近くに行けば、ともすれば呪ってしまう。ベタな感覚。
この、素晴らしき日々を思うことは、終末を思うことでもある。長ければ、あと半年。短ければ、この夏の終わりまで、だ。期間の長い短いは、俺一人の問題であって、何者にも意見されぬし、助言も救済も重みを持たない。呆れるほどの自己中心。絶対的なものが欲しい。絶対にして、無敵なものが。これさえあれば、他は何も要らぬと叫べるものが。頂点だ、頂点が欲しい。奇麗事は要らぬ。偽善も偽悪も、慰めも煽りも、愛情も嫌悪も、客観的に測ってしまえるような、ものさしが、欲しい。
ここには、夜しかない。
本当なのか、嘘なのか、冗談なのか、本気なのか、本音なのか、建前なのか、考える。思い出せ。全ての状況、しぐさ一つ一つにおいても、細部まで思い出し、客観的に判断しろ。俺には、本当に、あの場所なのか、俺には。素晴らしき人々を疑っているわけではない。自分の行動の失敗を疑っているわけでも、ない。することすべてが、俺の中ではそうせざるを得なかったことであって、あまりにも必然。選択肢は存在していない。あの時ああすればよかった、あそこでああしておけば。無意味だ。俺は、最上級で、最高級の行動を、する。それで失敗とみなされるのならば、それは、もともと、俺自身が失敗ということだ。けれど、改善はできる。失敗といわれれば、少しくらいはよくもできよう。けれど、失敗と言われていることさえ気づかないときのあるので、自分の状況把握力の皆無を信ずるがゆえにも、やはり熟考せねば、ならぬ。


せみがあまりにもうるさいので、そろそろ、なつはおわってしまってもいいのではないかと、かんがえる。