誕生日

また、明日という日がやってくる。否応もなく、つまり僕には拒否権とやらが全くないわけだが、つまり僕にはまだ選挙権がないのと同等に、時間という流れ、形ばかりの自由、重いばかりの、想いばかりの今を素のままでいるという権利、むしろいつかは自分の中で義務になるだろうものばかりではあるのだけれど、それを持つことすら許されないのだ。許可、だれに求めているのか、それは僕にしかわからないだろうけど、それを僕に問う許可さえも僕は僕から得ていない。
何かを放棄して別の何かをするということ。今この文章を、何の脈絡もなく、想いもなく、それでも、想いそのものがあるように書いていくこと、それなのだが、何の意味があるというのか。文章に意味なんか求めちゃいないはずなのに、そんなことをいつかから考えている。書く、イコール文章が出来る、という単純な図式だったのが、どちらかから一方的に提供されるようになっているのか、どうにもいらいらする。
あの子と一日中、他愛のないメールしながら、過ごした時間、僕にとっては今この自分のための自分の時間よりも何十倍も何千倍も大事なのだと何故か思っている。自分を軽視しているのだろうかというと、まるでそうではなくて、自己中心的な俺、たくさんいるのだから、自分自身を肯定してやること、得意なはずだ。それでも、ありふれた質問、僕と彼女とどちらかしか生き残れない、なんて質問、されたなら、二時間考える時間をもらおう。
さて、僕は「さて」という言葉、とても好きなのだ。今までのこと、全てなかったことに、いや違う、全てをひとつの過去に押し縮めて、未来を作っていく段階をかたちどる、そういう言葉だ。まぁ、そんなことなんかちっとも思ってやしないけど。
ポジティブに、のんべんだらりと書いては消し、書いては消し、していく時代があったから、こうして、少しのネガティブさとともに、ポジティブな気持ち目指して、消しては消し、書いては書くことが、できるのだと信じたい。あの子の影響も多々ある。他愛がなさ過ぎるんだよ、お前は。大好き。セックスしたい。
欲望、だけの人間なら、僕は僕を軽蔑するだろうけど、何かやはり憎んでしまえないのは自分だからか。自分が自分を嫌いであるということ、口で言うのはたやすいけれども、むしろ思うのもたやすいが、本気でそうなってしまうこと、僕は恐れている。あの子を嫌いになってしまったりする自分なら、そんなお前は死んでしまえと、思うのだ。けれど、あの子の全てを肯定、するわけでもなく、やはり欠点、少し垣間見て、あぁ、と思うには思うのだけれど、制服のあの子を見たら全て忘れる。制服の少女、征服の処女、セーラー服だ、興奮するね、つまり、その程度の男、僕。
上を見すぎてないか?
やると決めたら完璧にやり遂げたいと思うのが人情ならば、僕は人情にあふれすぎているのか。そのくせ何も完成しない。結局才能、天賦のもの、のせいにすることもしばしばだ。それはいけない、と何度も思ってはいるのだが、思っているだけで、実行に移さない、とも何度も思ってはいるのだが、駄目だ。
さて、二度目のさて、だ。いつか、貴方と僕が離れるとき、僕は心底落ち込むだろうか。それならば、少し嬉しいのだけれど、やはり、寂しく思う。
くだらないセリフもたくさん吐いた。彼女の誕生日に何をあげるかばかり考えている。それだけ。