噛み殺されることについて

最初の嫌悪、続く葛藤、終わらぬ絶望、その中で僕は安息を得たような気で居た。いつしか暗闇は去り、灯火の元で安らいでいるかのような、そんな気分さ。だけれども、そんなのは、まるっきり、嘘だった。自分の意思でここに来て、誇りを持ってここに立っているのだ、そんなことを信じ込んでしまっていた。痛みを許容するために、苦しみを緩和するために、悲しみを忘却するために、思い込んでいただけなのだ。僕はここに居てはいけないはずなのに、僕はここが嫌いだったはずなのに、自我を保つために僕は肯定した、周囲の全てを。それはもはや肯定とはまったく異質のものに変性してしまった。諦めに似た、虚ろな目で頷くだけの、そんな反応。
そうして、犬人間の存在を忘れてしまっていた。
奴らは孤高を気取っていながら常に群れている。灰色の目に汚れた毛皮、大体みんなお揃いさ。他人と違うこと、個別であること、それを声高に叫ぶのは仲間が欲しいばかりだからで、揃いも揃って馴れ合いは嫌いだと群れで笑う。奴らが尻尾を振る相手は、信頼できる仲間なんかじゃない。単にそいつが群れの幹部だからさ。その上奴らが牙を向く相手は奴らの敵ですらない。奴らは草ばかり噛んでいるのに、したこともない狩の話をしているんだ。モノクロに紛れて、セピアを制覇したつもりで、カラフルに相対してるってポーズさ。
そうさ、奴らが犬人間だ。
君が奴らの合成された声に耳を傾けるとき、君の耳は尖っていくんだ。なんとなく日常を拒絶するとき、君の心はどうにも汚れちまう。僕にはそれがどうにも許せないんだ。君が偽善者を笑うとき、君が偽悪者を断罪するとき、君の魂は奴らに擦り寄っていく。必要なのは懺悔じゃない、欲しかったのは後悔じゃないだろう。僕は全身全霊を持って君を肯定する、たとえ君が犬人間の仲間で、胃液の味しかしなくても、僕は君を肯定する。君以外の全ての犬人間を否定している僕であっても、君を肯定することは出来る。それは恐らく、背反にはならないだろう、矛盾しないだろう。これまで肯定したやりかたを全て間違いにしたって、僕はこれからこっちのやりかたに変えるとするよ。君を、本当の意味で肯定できるならば、こっちのやりかたに。


明日僕が死んじまうから、君を肯定させてくれ。明日僕が殺されるから、僕に君を肯定させてくれ。明日、明日僕が居なくなっちまう前に。

TOKYO旅情

懐かしき歌、聴くたびに、思い出深くなり、忘却の彼方、泳ぐたびに、絶望に潜ることとなる。清浄な水のような声、恐らく美化した後の記憶。手繰ろうとしても、捨て去ろうとしても、絡まり続けた関係は解消されないのだ。三人目の男が現れた後、二人であった関係は一人と二人となり、残された一人は旅に出た。

もっとあの子の話を聞いてやればよかった
もっとあの子の手を握ってやればよかった
もっとあの子の傍に居てやればよかった


  お元気でしょうか
  僕は今貴女への手紙を書いています
  何分不慣れなことですから
  文章が下手でも許してくださいね


もっとあの子の顔を見てやればよかった
もっとあの子の手首を見てやればよかった
もっとあの子の傍にいてやればよかった


  桜の咲く季節になりました
  今でも一本だけ残っているのでしょうか
  もう貴女は忘れてしまったかもしれないけれど
  僕はまだ覚えていますよ


もっとあの子の冗談を笑ってやればよかった
もっとあの子の嘘に気づいてやればよかった
もっとあの子の傍にいてやればよかった


  住所も変わってしまったのでしょうか
  だとしたらこの手紙も届かないかもしれませんね
  それでもいいと僕が思ってしまうのは
  おかしな話なのかもしれませんけれど
  それはそれで何かほっとするような
  そのような感じがするのです


もっとあの子を抱きしめてやればよかった
もっとあの子を撫でてやればよかった
もっとあの子の傍にいてやればよかった


  これまで何度も手紙を出そうと思ったのですが
  これがどうして書くことに困ってしまうのです
  それにもうひとつだけ言い訳をしますと
  何を伝えようかと迷っているうちに
  僕からの手紙なぞ迷惑ではないかと
  そんなことを考えてしまうわけなのです


もっとあの子の傍にいてやればよかった
もっとあの子の傍にいてやればよかった
もっとあの子の傍にいてやればよかった


時は既に遅く。

動物実験として

あの子はすべてを話すことで自分が救われると思っていた。懺悔でなく、告白でもない、純粋に自己の全てを話すことで、救われるのだと信じていた。後悔なんて、あるいは罪の意識など一つたりとも持ち合わせていないのに、ぼんやりとした不安に包まれていたのだ。きっと、愛する人に抱かれて泣きながら話した夜もあっただろう、あるいは世界で一番憎しみを持つ男に、汚い言葉を投げたこともあっただろう。けれども、いや、だから、さ。あの子はそれをもう繰り返したくないのだ。何故って、何故ってね、彼らは救ってくれなかったからさ。包み隠すことをしないのは、彼女なりの処世術で、これからはきっと失敗するまでそれをずうっと続けるのだ。
やっとだよ、やっと、と彼女は笑う。これまでずっと死んでたから、これからようやく生きていかれるんだ。これまでのことは全部嘘で、これからのことは全部本当だから。
この子にとっては全てが実験なんだ。死んだらそれまでの実験を繰り返して、死んだらそれは、それで、いいのだって。それで僕はようやく納得した。僕にとっちゃ全部現実だったのだけれど。

「世の中の全部が最悪だって思うのは、ずっと最後で、世の中の全部が最高って思うのは、それからすぐのことだったのね。だから、きっとそれが始まりなんだって。終わりが来た後に、きっと始まるんだって。そうやって思ったの」


桜が満開で、僕はどうにも発狂した。半端な笑顔で春を待っていたはずなのに、どうにもあの色を直視することができないのだ。桜散る中で僕が終わっていくならば、僕が始まるのは新緑の手前、葉桜の侵食する季節。春に犬が死に、行き着く先はロボット人間と人間ロボットの狭間。どうにも現実だらけで、逃げ出すことにすれば、ようやく気付くのだ。
ああ、彼女の心象風景は、ここにあった。
桜の木の下には死体など埋まっていない。生命力よ、美しさよ。死体が添えてあるならば、葉桜の、その生命力の、そんな場所に、細い首。

寂寞風景

一昨日は月の大きな夜だったらしい
僕はそれをとんと知らずに
暗い部屋で煙草を飲みつ
酒を傾けては独りごちていた


とくとく
とくとく
薄い硝子のコップさ
それに酒をそそぐよに
喉に流しいくのです
拙い生を思い知り
喉に流しいくのです


何も考えたくないのだけれど
やはりどうして自分の欠陥を
考えてしまわぬわけにはいかないのです
何も思い出したくないのだけれど
やはりどうして自分の失敗を
思い出さないわけにはいかないのです


くっつくか
それともわかれるか
人間はただそれだけだ
人間はただそれだけだ
ああ、僕の失敗!
『僕の失敗』とは、何だ?
僕はいつだって独り酔っ払っていた!

ずっと石を積んでいる

どちらでもいいことはどちらでもいいの、そんな理由なのだと思う。そんなわけがネェだろう、努力者は言う、どちらでもいいことなんて世界には一つもなくて、どちらかに決めて、それを必死にやらねばならぬのだ。ケチな男は言う、どこから夢だか現だか、それさえも分からないのに決められるものか。
ずっと端っこにいた。ずうっと端っこから、真ん中を見ていた。真ん中の奴隷達を見ていた。羨ましそうに見ていた。僕はきっと春に枯れてしまったあの花のように。酒を食らった翌日は、いつだって奴隷が羨ましい。自分を椅子に縛ってみても、川沿いを歩いてみても、肉を食って吐いても、羨ましいのだ。

「親の顔が見てみたいね……あいにくここには鏡がないのだけれど」
「死ね」
「君を好きな人がいたら一目見てみたいね……あいにくここには鏡がないのだけれど」
「……死ね」


僕がここから消えてしまえないのは、まだ僕が正常だからか。それとも何も持っていないのを信じられていないからか。終わらない冬は無いという。ならば、ずっとここで春を待つ。春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て、そうして待っているだけで日々は過ぎていく。
それならそれで、いいさ。
そんなわけがないだろうにね。

我に返るまで短くなった

心の優しさを歌った男は、巨乳の女とセックス三昧だった。世の中の汚さを皮肉った女の子は、三十路を超えてもそのまま子供だった。夢みたいだな、こんなに世界が素晴らしいなんて、こんなに皆が僕に優しいなんて、夢みたいだ、そんなことを言いながら、ACIDキめて少年は死んだ。夢だったんだよ、と馬鹿が笑う。生きていてよかったと、そんなことも言えぬまま、小心者の馬鹿が笑う。いったい誰が幸せなんだい? ひょろりとした笛吹き男が現れて、僕の子供を連れて行った。鼠と一緒に連れて行った。それはそれは、可愛い鼠だったのに。
頭脳の端っこで考えていたことが、ついに現実となって現れ始めた。最初は薄い灰色、雨雲の様であったけれど、どうやら近づいてくるにつれ、そいつは大量の目玉であることに気づいた。妄想、妄言垂れ流し、暴走、暴言吐き散らし、果てには沈黙。裏側が見えるんだと思っていたのに、なんということはない、僕の脳がヤニ黒焦げていただけじゃないか。馬鹿らしい、思考が馬鹿らしい、あの子は馬鹿らしい。


幸せをそのまま歌っちゃいけないんだ。僕らは生きているだけで意味があるんだ、なんて御為倒しで安心しちゃいけないんだ。気が狂ったフリをしている場合ではないし、気がまともな格好でいるべきじゃない。懐かしい場所で煙草を吸えば、懐かしい香りと懐かしい空気、僕はそれが幸せで、幸せなのが切なくて、どうしようもなく自棄になった。コーヒーの空き缶蹴飛ばし、我に返って拾って捨てて。時がたつのも怖ければ、時がたたないのも怖く。


赤いSG、冷えたコーヒー、お気に入りの曲、煙草、酒、酒、酒、酒! 酒! 酒! 酒!

サラバの地よ

ともかく格好のいい言葉だけで世界を覆ってしまいたかった子供は、数年してから気づいてしまった。賢い女の子は、ずっと前から気づいていた。たわごとパーティはすぐ終わってしまうもので、イカした言葉を振りまいていた男は、自分のことを金星人だと思い込むようになっていた。代わる、代わる、がなる、がなる。単純明快、わかりきったことだったのだ。ありえないものを探すより、近場のもので、満たしてやればよかった。そうすれば、こんなに嫌な夢なんて見なかった。妄想、現実、狭間は常に不愉快で、どちらかに偏ってやりさえすれば何となく気持ちの良くなったように思えるのだ。どちらかの中に、残ったものを当てはめるしかない。そうやってできたものは、何となく心地よかった。いつの間にか、僕は、何となくの世界に取り込まれていた。
何となくじゃ駄目なんだよ、と少女は煙草を咥える。慌てて僕はそれに火をつけた。
壊そうか、と考える。居心地のいい場所なんて、十のうち八か九、偽者だ。怖そうか、と考える。壊してしまえば何も僕を安心させてくれないよ、恐ろしいな。請わそうか、と考える。僕が逃げるために、僕の代わりに誰か、俺の生きる意味を作ってもらえないだろうか、なんて。ぼんやり考えている間に、改行の多い声色で、マクドナルドのストロー、噛み続けながら、セックスばかりの話を、少女は、した。体だけでもつながっていれば、なんて、ありきたりだけどね、少女は笑わずそう呟いた。だいたい頭がおかしいんだよ、セックスばかりの奴は。性器と一緒に頭までゆるくなってるんじゃないの? そうして、少女はようやく笑った。
僕は、逃げ出した。
たった百人から糞ッタレな目で見られただけで。たった十人から嘲笑されただけで。たった二人から理解されなかっただけで。たった一人から拒絶されただけで。
走り去って気付く、幻想の夜など、幻想だった。きゃら、きゃら、と笑う顔を思い出しながら、握り締めた冷たい缶コーヒー、飲み干そうとして、灰皿に使ったことを思い出した。頭は、着実にマトモになっていった。とにかく、物語の中のことが、僕の身に起こるわけがないのだ。
然るべくして、少女は僕を殺しに来て、大丈夫よ、また笑った。酒に逃げてから、ゆっくり考えりゃえーが。僕も笑った。