嘘を吐いてはいられない

全ては単純でよい。複雑なことなど、あってもなくても変わらぬものだ。
愛すること、憎しみあうこと、痛むこと、癒すこと。全ては元来単純で、そこにしがらみが付随することでわけのわからぬ魔物になる。それは黒い大きな体をしていて、目が無数についている。それが俺に話しかける、お前は何もわかっていない、と。俺は答える、そんなことわかってるさ、と。まぶたにうかぶは泥濘をもがく自分の姿だ。複雑さに捕らわれるのを恐れ、泥の中に逃げ込んだのだ。泥の中にひとつだけでも綺麗な石があればよい。それを見つけるだけなのだと。何も見えず、体は汚れ、道行く人々が俺を見ている。恥は捨てた、後悔するつもりもない、俺は、俺にできる最大限の効用を追い求めるだけだ、これこそが単純の極みだと。そんな風に俺は泥を泳いでいる。時折手に触れる硬いものを腰につけた袋に入れて。そうして息も尽き果て、体の泥と同化したとき、俺は思うだろう。俺は何もわかっていなかった、わかっていないということさえもわかってはいなかったのだ。真理を探しているつもりで飛び込んではみたが、結局は泥にがんじがらめになっていた。乾いた笑いは、湿った泥に消えていく。
その繰り返しだ。俺は数回死に、そのたびにいくらかの確信を得る。生きるたびにその確信は欺瞞に変わるが、死ねば新しい確信が手に入る。俺は生き切らねばならぬ、俺の死ぬというのはそういうことだ。死に切るまで、生き切らねば。そうして、腰につけた袋から出てきたものはガラクタで、僕はそれを愛しく思うのだ。
全ては単純でよい。複雑なことなど、あってもなくても変わらぬものだ。ただ、結論に至るためには、過程では、単純でいることなど、できはしないのだ。


僕はなんて幸せなんだろう。愛する人々が、砕けそうになる俺を立たせてくれる。だのに、俺はそんな時、きまって一人、海辺のことを考えるのだ。ゆうらり、ゆらり、風の中。冷たい夜の先にある、あの寂寞の情。俺は、俺の孤独を愛せることを感謝する、また、俺の繋がりを愛せることを感謝する。あの日死なずにすんでよかった。あの日、生き延びて、本当に良かった。繋がりを前提とした孤独であってはいけない。純粋な孤独でなければ愛する価値がない。繋がりも、孤独を解消するための方法論として使われたのでは、その美しさの何が見えるのか。冬に夏を思い、夏に冬を思うならば、四季の美しさはどこにもないように。俺は叫びたい。叫んでいないと保てない気がしている。全てはまやかしで、偽者で、そうして本当のことなどなくなってしまいそうな気がする。俺には本当のことなどわからぬ、わからぬから、本当のこと、などと言うあいまいな言葉でごまかしている。ただ、それの存在を信じているのだ。何かわからぬが、あの日叫んでいる最中に、何か見えたもの、あれこそが求めているものなのではないかと考えている。


海の近くに家を建てて、白い大きな犬を飼い、いくらかの小説を書き、いくらかの音楽をし、そうやって暮らしていきたかった。その夢はいつか叶うともしれず、夢物語、笑い種になるかもしれぬ。
救いの道はあるのか。昔の俺ならば、無いと言って笑っていた。
二年ほど前の文章を読み返す。自分が書いたとは思えず、首をかしげる