いつだってふたりなのにいつだってひとりだった

あの可愛い子と夢を見ている間も、僕の一部、破滅主義の部分が凍るようでいる。楽しいだけで終われるべくはない、美しいだけで死ねるべくはない、愛し合うだけで生きられるべくは! 僕の理想主義の部分が、悲しいだけで終われないし、汚いままに死ねない、憎しみ合いで生きられはしない、なんて怯えた目で言っている。これは希望だし、期待だ。願いでさえある。思想なしで生きるには心もとないので、ただただ武装している。必要なのは肯定主義とダダイズムの振り切れた心の狭間、損得勘定から逃げ切った場所。言葉遊びをするならば、憎しみ愛と呼べる、そんな境地。弱いばかりの人間様だ、弱さ抱えて笑っているんだ、人には自恃があればよい。は、開き直りもここまでだと滑稽だね。散歩の道中で出会う尻尾の曲がった黒猫が俺を馬鹿にして悠々と歩いていく。
性欲の肯定、それは行われるべきだ。性欲を放棄して自身を語ることはできない。芥川は侏儒の言葉の中で、『恋愛は唯性慾の詩的表現を受けたものである』と書いている。ただし、考えなければいけないのは、『少くとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに価いしない』と続くことである。性欲を恋愛と呼ばず、恋愛は性欲ではない。ただし詩的表現は性欲を恋愛に昇華させる。ふたりの意思が存在している場合のみに限らず、いたいけな想いにあてはめたって構わないだろう。手淫を、ただ愛する人への思いをどのように操作していいかわからぬ時に限るならば、それは肯定されるものだ。快楽におぼれるために、あるいは自己の欲望を吐き出したいがための手淫は、けして正しいものではない。それを自覚することが大事なのだ。行為自体は行ったって構わない。誰に迷惑がかかると言うわけでない。
ただ、あの子のことだけは近くに感じていたい。一途だと、自分のことを捉えていた時代は終わった。俺は移り気な男だ、悲しくもそれは事実であった。愛することはいのちがけだ、そう思って俺はやってきた。けれど、俺は一度たりとも愛することに真摯でいなかったのだろう。これから真摯であれるか、それさえもわからぬ。俺は自己に絶望している。理想を追い求める中にも、現実的な欲望が見え隠れしないわけにいかない。そもそも恋愛というものがわからぬのだ。俺は怖くている。きっといつかは傷つけてしまうのではないか、なんて紫煙を燻らせている。


矛盾していたい。いつだって理想と現実でゆれていたい。だから、今はとても良い時間なのだと思う。精神が削られ、怒りと焦燥があらわになり、そこで俺はくだらぬ自分を認識する。終末思想さえこだまする俺の脳内は、過去の記憶が跋扈している。


死骸関係、愛し愛され夢の中、そこで見る夢は淫夢桃源郷か。