絶望、そしてその果てに見るもの

どうにも安定していた。落下さえも予想の範囲に収まり、仮定された事象は全てがその通りに進み、まるで、考えたことしかこの世にはないようだった。けれど、ふいに安定は崩れた。あの子は、恐らく俺に真なる抱擁を望んでいたのではない。おそらく、俺は腰掛に過ぎず、踊り場に過ぎなかった。あの子の、この分野において、道はまだ続いている。俺は安寧を望んでいる。一連の流れに寄りかかった、偽の自由、嘘の安寧ではない。俺が望むのは只人の俺が、有象無象の個体が、しかし大多数の中にまぎれることなく、歯車としてであっても個を意識できる自由であった。また、安寧においても、殺されないだけでなく、殺すことを(それは他人を、あるいは自分をである)思わぬように自分を律し、俺の愛する人々を愛しつくせるような、そんな安寧である。愛することは命がけで、愛し合いは殺し合いだ。けれど、これといった由もなく、愛し、殺すのは、あまりにも偏った防御反応であると言わざるを得ない。防御、これを俺は憎まない、しかし、予防的に、打算的に、また、計画していても他人の幸せ利用するような手口で、防御することには、悲しみを感じて仕方がない。少なくとも、俺の愛する人々に、そのような卑怯なやり方で自己を肯定して欲しくはない。自己肯定とは、他人の否定から出なく、自己の傲慢からでなく、他人を愛することの原点からはじまるべきだ。
ただ、俺の場合は往々にして、他人を愛することもエゴの一部分となってしまうことがある。褒めて欲しいがために褒める、守って欲しいがために守る、愛して欲しいがために愛する。どうしようもないほどに偽善的である。こればかりは、改めねばならぬ。偽善を、俺は同様に憎むことがない。それによって得られる数々の素晴らしき光について、俺はこれを否定するすべを持たないからだ。ただしかし、裁くのは自分自身である。行為を裁くのでなく、自己意思と言うその点において俺は俺を裁き続けねばならない。罪を憎んで人を憎まずとはよく言ったものである。その言葉が長く続いているように、真理なのだろうが、こと自分の罪に関しては、自己そのものを憎まずにいるわけにはいかない。だから、感情論であり、あるいは倫理的な俺の部分が、きちんと自己を憎めと俺に迫る。集合体であり、個としてある俺は、いくらかの思案のもとに、自己を殺すかどうかの瀬戸際まで走るのである。偽善行為自体を大事と捉えるのは悪くはないが、真なる善に向かっていく、その意思を捨ててることは許されない。
誰にも否定されたくない、誰にも裏切られたくない、その感情から行動するのは簡単なことだ。その道のりが酷く険しいものであっても、最初の一歩を踏み出すのはとても簡単だ。けれども、自己を裏切ることとその一歩が同義であるならば、また、掲げる信念に少しでも反するならば、それを行うべきではない。


ただ、怒っている。俺はそれくらいの人間に見られていたのかと、その程度だと思われていたのかと。同情で俺の気を引くことはたやすいが、それだけで俺は動きはしないし、そこから愛が生まれることはない。俺は愛を求めている。愛し、愛されることを。それができる限り真実に近づくようにと(真実の愛などどういうものかもわからないが)願っている。模索せねばなるまい。愛というのがなんなのか、また、どれほどの値なのか。今の俺は、巨大なのか矮小なのか、わけのわからないままにそれを求める一人の子供でしかない。意味もなく存在に恐怖していた、あの頃と何も変わってはいない。


遺書の、最後の言葉が見つからない。これは、ずうっと考えていることだ。最後に書くべき最高の、最後の言葉が見つからない。跡に俺は何も残らず、遺書を読まれることで完結するような、そんな文句でなければならないと言うのに。俺はその言葉を見つけられるまで、得られるまでに大成していない。それだから、まだ生き延ばしているようなものである。長く思っていることは、何度でも言わねばならない。そうして、重要なのだと自分が気づくまでは。