非力なる

無理に作った嘘の寂寞、狂ったような無用の後悔、思い出に生きる俺の矮小さ、か。信頼は悲しいね、とあの人は言った。俺はそんな言葉を聞きたくはなかった。あの日、俺の愛する人は、俺の理想像であったから、あの人は俺の尊敬を浴びせられて、辟易していたのだと思う。恒常的に過剰であった。全力の二割り増しで生きることを存在の由として、自らをそのまま由とすることを知らなかった、自己肯定の安心を知らなかった。自己は否定されつくされるものだと考え、改善も思わず、殺されたがっていた。その癖死にたくなかった。俺は湖を見て海を恐れる性質の人間であった。
宗教儀式のようなあの興奮を俺は忘れてはいないよ。愚かだ。これは愚かしさだ。海を見た、俺は海を見たのだ。美しいものを見たら全て自分のものだと思ってしまうの。雨を思う夜、晴れを思う朝、どちらも脳髄の奥から爆発的に沸き起こる情動には違いない。だけれど、喉元を過ぎればどちらも嘘になってしまうのだ、なんて文字どおり、なんて乾いた冗談だ。夏に冬空の鼻腔を刺すを思うように、過ぎ行く日々は美しくあるのだ、思い出は美しい。美しいから、誰が死ぬかこんな町で、と独りごちている。付いているノブを全て十に合わせろ、その興奮を体感するまで死んでたまるものか、俺は爆音の元に死ぬ、と。「ぐしゃぐしゃで困ることなんて、大事じゃないこと、そんなものをいくつか見落とすくらいでね、本当に必要なものはずっとポケットに入っているの。煙草と財布みたいにね」これは真理だ、だが、怖くて仕方のないときもある、美しすぎるから、怖いの。海を見た俺は、今は湖が怖くて仕方がない。


現実的な言葉で俺を殺すんじゃない。過去が大事すぎてまどろんでいる。今、まさにこの時間が、俺に作れと命じている。ありふれたことでいいんだ、それを俺が美しく思ったのならば、それを書くべきだ。なに、それは幻想だなど、思い込みだなど、言わせておけ。俺の見た世界をただ無理やり見せてやるだけだ。自慰で良い、今は、自慰で良い。明日はどうだか知らないがね。


好きな子はできたかい? そんなことどうだっていいから俺と愛し合わないか? 紅い髪は鏡を見るたび自己の存在を確認させられる。外面と内面の不一致は、どちらかをどちらかに引っ張るのだと思う。外面が瞬間で動かされることは少ない、相対的に内面が動いていく。しかし、見失わぬことだ、思い上がらないことだ。自己肯定は思い上がりとは違う。