HUDAN

例えばそう、死にたいとか、もう駄目だとか、本気で誰かに言ったことあるかい。へらへらしていても、顔が笑っていても、口調は冗談でも、本気で。そこは一線なのだと思う。超えてはならぬのだと思う。許しだと、あの子は言う。少なくとも言わなければ死ぬのだから、墓場に持っていくよりも吐き出して生きたい、笑って言う。甘えるな。全ての人間存在は美しくあるべきで、ほとんどの人間存在はまだまだ美しくなれる。嘘ではないのだと思う、子供のようにそう思っている、この世界はまだまだ素晴らしくて、まだまだ素敵なことがある。冗談のようにあの人が言ったことを、まだ信じているし、俺は今も本気で言えるのだと思う。愛する人、上手い酒と、煙。全てそろっていて、あとはこれを増やしたり減らしたり、いや、ただ眺めて笑っているだけなのだ。自己を救済するために自己を貶めてはいけない。その方法論は間違いだ。
俺や君がどんなであろうと、どんな風に他人から見えていようと、まるで関係ない、大事なのは、俺や君がどんなであるか、どんなであると、俺が思い、君が思っているか、だ。加えて俺はあんたを美しいと思っていたさ。それはね、そう、馬鹿やったり、悪いことするな、と思ってたけどさ、それでも美しかったじゃないか、美学があった、哲学があった。今は駄目だ。それは駄目だよ。君はどうだい、君自信のことを屑だと思うかい。ならば、まだもう少しだ。自己批判カタルシスを得るのは時代遅れだ。使い古されたセカイだ。俺はそんなところに居たくはないよ。どうしてそういうところに居るんだ! ふざけるなよ。俺は、俺自身の事を屑だと思い、それでもこうして生き延ばし生き延ばし、ぬめぬめとした体を引きずって動いている。俺と共にだなんて言いたいわけじゃない。まっぴらごめんだ。ふざけるな。
無駄な改行は必要ない。小さな文字も必要ない。単純表現でいこう。自らの内容のなさを露呈したいのならそうすればいい。自らの矮小さを見せ付けたいならそうすればいい。だけれども、それでは救われない。甘えだ、それに付随しての、周囲の甘やかし。軽蔑する。美しくない。桜が咲くまでの間は全て本当のことなのだ。それから蝉が鳴くまでは全て本当で、ススキの風になびくまでは本当で、雪の音もなく積もっていくまでは本当だ。何が本当か、問う。全て本当だ、答える。道化になりきる覚悟のないのに、それだけの度量がないのに、道化を演じようとしても無駄だ。本当の道化は、自らを本物だと勘違いはしない、本物だと言わない。道化は、道化だと自己紹介する。嘘の夜に縛るな。


遺書を書くべきだ。本当に死にたいのならば、遺書を。
遺言というには精神的過ぎる。しかも、書いたらすぐ死ねるような、そんな文言でなければならぬ。だから、遺書なのだ。俺の場合、遺書に書くべきワンフレーズが見当たらない。いつものように、例えば昼間見た猫のことだとか、林のざわつきだとか、冬の海の冷たさだとか、目前に迫るヘッドライトの明るさだとか、そういうことを書けばいいのだと思う。しかし、俺の最後を締めくくるのは、単純で、それでいて本当の言葉でなければならない。言葉が見当たらない。どこにもない。俺の中にはなく、俺の身の回りにもない。まだ足りないのだ。遺書を書くには魂が足りない。魂の言葉でなければ、俺を飾るには釣り合わぬ。俺の死ぬのは、少なくとも魂のためにそうするのであり、美しさのためにそうするのだ。他の有象無象のためでないことを明らかにせねばならぬ。
魂のない言葉で動いてどうなる? それは傀儡と同じだ。魂のない言葉で自分を飾ってどうする? それは子供に指摘される。
だから、まだ。
だから?


犬が居て、海が見えて、好きな人がいて、それでいいのだと思う。だからこそ、叶わない夢なのだと思う。俺のこれから行くところは、近くに青梅街道があって、俺はそれだけで嬉しくなる、今の俺にはそれで良い。あの歌は良い。何度聞いても涙が出る。日本酒の肴に、丁度良い。
理想に死ぬには、俺はできうる限り理想的でなければならぬ。