逃げ道、帰り道

まるで馴れ合いのようではないか。酷く面倒だ。俺は、二回ひっくり返った後の言葉だけを信じている。表が裏になって、また表。最初に感じたこと、最初に思ったことと、得てして同じものが出てくる。しかし、その途中には長い長い思慮がある。俺は、自信を持っていない、しかし、同時に類まれなる自負を持っている。俺は俺の愛する分野において、一流であるとは思ってはいないが、ひとかどの物を生み出せるに違いないと考えている。これは何も産み出したことのない俺にとって、まこと恥ずかしい話ではあるのだが、本当なのだから仕方がない。俺はそんな自己を恥じる、理想の言葉に、最後の言葉に行き着くためには、愚劣にもほどがあると思う。人間存在と、理想とは、裏表の関係ではないが、大きな隔たりのあることは確かだ。ともかく、二回ひっくり返った後に同じ言葉が出てきたとき、はじめの言葉と終わりの言葉とは、本当に同一なものか、それをまた熟慮するのが大事なことだと思う。俺の愛と、君の愛は同じ言葉かい? いいや違う。俺は何度かひっくり返した。君は何度ひっくり返した? 千遍か、万遍か、俺より多いか少ないか。偶数回ひっくり返して、同じ表であったとしても、回数はそれだけでも差異となり得る。最後にいたる回数は人それぞれであって、俺にはきっと、人よりも回数が必要なのだと思う。俺はまだ途上である。俺は最後に行き着きたい。最後の愛は表か裏か、表であると信ずる、それに、それならば、どんな表なのか。考えることだ、それと、実践。破壊と再構築に似たものがある。ずっと連続しているが、少しずつ差異が生まれていく。
俺の言葉と、愛する人の言葉は違う。しかし、俺は愛する人から言葉を押し付けられたくはない、同時に俺は押し付けたくはない。必要なのは、欲しいと願う心だ。俺が愛する人から受け取るのは、愛する人が俺に受け取って欲しいと願い、そして、俺が受け取ることを決意したものだ。俺は愛する人に俺の好きな物、好きな言葉、好きな音楽を受け取ってもらいたい、けれど、しかしそれはそのことを表明したうえで、受け取るかどうかは相手の選ぶことだ。いかに自負があったとて、受け取ってもらえるかどうかは相手次第にしなければいけない。傑作ができた、などという自信のあれば、それは押し付けるべきだが、自負だけで押し付けるのはエゴの肥大だよ、摩擦も生む。俺は押し付け合いの文化は嫌いだ、頼りあいの文化と似ている。全ての人間存在は、確固たる意思の元に、一人でいることを認識すべきだ、いいや、これも押し付けか? 難しいものだね。違う、違うと思いたいのだ、押し付けではなく、意思表明としてのものである、と。簡単に矛盾は生まれる。理想と現実は別のものだ。俺が手を上げたとて、愛する人々全てが手を上げ、声を上げるわけではない。それでも、俺は理想を語らねばならぬ。そして、この理想を、どうにか、受け取って欲しいと叫ぶ。受け取るかどうかはあなた方の選ぶことだ。ここにある全ては自戒のため、リハビリのためだ。


ずるいね、逃げているね。
もっともだ。俺は逃げ道を常に用意している。逃げ道の無く、必死に道を進んでいるときは、きっと、逃げ道を見つけ忘れたんだね、失敗したんだね。俺は卑怯な男だ。俺は誠実でありたいと願う、願うだけの、卑怯な男だ。君のことが嫌いなわけじゃないよ。少し言葉が違うだけ。愛してますよ、らぶ。へ、これも逃げ道。


最後の言葉は、きっと、美しいだけの言葉にはなり得ぬと思っている。しかし、本当の、心の臓をえぐる言葉になるはずだ。美しいだけは駄目だ、中身の無い、からっぽだ。