やあ、僕の右手

みんなそうなんだって、なんて慰めの言葉が嫌いでね、なんだ慰めてんじゃない、諦めを促しているだけではないか。例え俺の、頭揺らして風に泣く時間をさ、それ以上の辛さをさ、誰某が味わっているとしても、俺の傷は癒えないのだし、ふらつく頭抑えてそれでも煙、頼るしかないのだ。どれだけどれだけ拾っても、拾った先からこぼれていくのだ。愛する人はたくさんいる、けれど、愛する人もこぼれていくのだ。俺は悪い。全ての人間存在は、俺を憎む権利を有しているから、俺も逆に全ての人間を憎む権利を有しているという話はひとまず置いておいて、俺は誰に憎まれてもそれを認めていかねばならない。積極からではなく、消極から来る考えだ。自分が誰かを憎みたいから、それだからあなたにそれを許すのでないよ。怖いことがたくさんあるからだ。見える範囲にたくさんあるからだ。それをひとつずつ解体していかねばならない。怖いものはわからないもので、わからないから怖いのだ。わかったから怖くなくなるというわけではないけれど、逃げる俺に止めを刺す一撃だけは避けねばならない。ずっとまっすぐな道を逃げ続けている。道は複雑ではない、俺なんて単純なものだ、雨上がりの澄んだ風、曇り空、その下の俺だ、複雑になりようもないよ。わかるようにしよう。簡単にしよう。全ては単純に。何が悪いって、何が悪かったかって、それを見つけたいわけじゃない。解体した後に探すのは一歩目の足の出し方だ。
目を瞑れ。積極で耳をふさげ。わからないものを解体したら、もっと恐ろしいものが出てくる、そんな場合も確かにある。ああ、なかみなど、みなければよかった。ああ、こんなものがはいっているなら。戦うのが嫌ならば、そうさ、逃げるしかない。肯定的に逃げろ。走って振り切れ。消極に生きるだけでは死ねぬ、積極で踏み出せ。


人に頼るのはね、それで暖かくなるのね。一時の幸せなのだ。わかっている。わかっているから、俺は、なるたけ頼りたくはない。意図せず頼ってしまう、俺にはありがちな話で、それを俺は手放しで肯定はしたくはないのだ。俺の汚さを、俺の独りよがりの辛さを、誰にも誰にも背負わせたくない。痛みを手渡すとね、痛みは増えるんだよ。減るなんて思っては駄目だ。あとからじわじわと腹をえぐるのだ。その幸せは毒だ、欠乏すれば欲しくなる、満たされなければ黒いものが生まれてくる。痛みを減らすために、新しい痛みを生み出してどうする?
俺の頼るというのは、一方的な、あまりに利己的な、繋がるということとは別の話だ。俺は繋がりたい。一片の打算も含まない純粋な感情で、俺は繋がりたいのだ。愛とはそういうものだ。俺が笑うためではない、あの子を笑わせるために愛は存在する。頼っただけで繋がった気分は嘘だ、同時に、頼られただけで繋がった気分でもそれは欺瞞だよ。手軽な気持ちよさを求めてはいけない。本当の幸せということは、本当の愛ということは、なくしたときこそ満たされるものでないといけないのだ。


最後、ってのはいい言葉だな。何もかもが終わって、その場所の話だから。何もはじまらない。終わりとはじまりは紙一重だと誰もが歌う。そこに希望を見出す。最後にはそれがない。最後には希望はない、しかし、絶望もない。あるのは身一つだけ。生きていて良かったと、ただそれだけの、俺一人。いい言葉だな。傲慢さは捨てねばならない。俺が得意がれるものなんて、先人がもう、その何倍も持っていたものだ。最後には俺は一人。最後に行き着くために、最後を掴むために、俺の手は伸びるか。寒いな、それでも指はまだ動くか。冬の終わりはどこにある、春のはじまりの場所にある、季節の最後は何処だ、それを探している。