コーシ

 コーシという男がいた。本名は知らない。僕が彼に出会ったときから、彼はコーシと呼ばれていたし、彼自身もコーシと名乗った。そのコーシというのが、どのコーシなのか僕は知らない。講師だろうか、厚志だろうか、それとも孔子なのだろうか、そのどれもが正解で、そのどれもが間違いのような男だったから、断定するにはいたらなかった。コーシはある時は先生だったし、ある時は親切な男であったし、ある時は思想家であった。けれど、たいていの時、彼はどうしようもない男であった。
 そう、彼は本当にどうしようもない男であった。
 彼の仕事は三日と続かなかった。定職につくことをどうにも嫌がる節があって、いつだってふらふらしていた。彼はそれを信念だと言っていた。生きるために仕事をするのなら、その仕事をする時間中は生きていないということだ、とすれば俺はその時間を生きることに費やす、彼はそう言っていた。冗談でなく、そう思っていたのかもしれない、あるいは、ただの冗談だったのかもしれない。ともかく、彼は仕事をしていなかった。
 仕事は持っていなかったけれど、彼はどうにか食っていける、それだけの金をいつも持っていた。コーシには女がいたようで、それも一人二人ではなく、たくさんの女に囲われていたようである。彼は金のない時、そういう女のところに行っては施しを受けていた。
 僕は一度聞いたことがある。
「女に養われるというのはどういう気分だい、飼われているような気分かい?」
「飼われてる気分といったらそうだろう。それでも、悪くないさ。いや、飼われているというのは中々悪くないもんだ。人間は誰しも、何か大きなものに飼われていることを自覚しなければならない。一人で生きていると思っても、そいつは大間違いで、結局のところ自然に生かされている。自然というものが何なのか、それは話が大きくなってしまうからここでは追求しないが、神というものだろうね、突き詰めてしまえば。ともかく人は生かされているものだ。俺は、俺にとっては、その俺を生かしているのが、女だというだけの話だ。一人で生きるものにとって自然が神ならば、俺にとって女は神と言えよう」
「女を神と思ったことはあるかい」
「無いね。それは無い。言えるだけで、思っているかどうかは別だ。女はね、俺を飼っているようでいて、俺に飼われているんだよ。それだから、俺は女の神でもある」
「どういうことだい」
「俺を生かすことによって女は、俺を生かしている自分を獲得する。俺は女から金を、あるいは物を貰う代わりに、自己を与えているのだ」
 コーシはギブアンドテイクだよと笑った。
 僕は嘘臭いなと笑った。

 そんなある日、コーシがいなくなってしまった。コーシの女の何人か、コーシが僕に会わせた数人は僕の連絡先を知っていて、僕がコーシに近しい間柄だと思っていたらしく、コーシがいなくなってから幾日かして、僕に連絡を取ってきた。僕はその全てに、知りません、と返事をした。事実僕は何も知らなかったのである。そもそも、僕とコーシは近しい間柄でもなんでもなかった。僕とコーシの年は十近く離れていて(コーシの方が僕より年上だった)、僕とコーシの関係は、友達でも後輩先輩でも、または親子のそれとも違っていた。
 別に探そうという気持ちは起きなかった。コーシがいなくなることはしばしばあったし、毎度毎度三日とせずに街に帰ってきたからだ。ただ、変な予感はしていた。出て行くとき、ふらりといなくなるとき、コーシは決まって僕に何か一言告げてから行った。
 その時は、しかし、一言も無かった。いなくならないときのように、また明日来るかのように、コーシは僕の部屋を出たのだった。だけれど、コーシはいなくなってしまった。それだけは疑問であった。
 コーシは帰ってきた。三日とはいかなかったが――僕の覚えている限りではいなくなった日から一ヶ月はたっていたように思う――帰ってきた。コーシはぼろぼろであった。ぼろきれに命が与えられて、それがそのままひょっこりと歩き出したような、そういうような風貌であった。
「俺はどうしようもない男だ」
 知っている、と僕は答えた。
「コーシがどうしようもないっていうのは百も承知だ。だけれどね、今回はどうしたんだ? どうしようもないにも程度ってものがある」
「俺はどうしようもない男だ。俺は、女を一人殺してしまった」
 ほう、と僕は言った。
「殺してしまったというのはどういうことだい? まさか、本当に手をかけたのかい?」
「違う、そういう意味じゃない」コーシは首を振った。「俺はそんな馬鹿なことはしない。だけれど、あの女は俺が殺したようなものだ。俺は、あの子に死ぬなら死ねと言ったのだ。あまりにも死にたい死にたいと言うものだから、死にたくない奴ほど死にたいと言うものだ、そんなに死にたいというのなら本当に死んでみろ、と俺は言ったのだ。そうしたら、次の日、女は本当に死んでしまった。俺が殺したようなものだ。枕元に、女の死んだ枕元には、俺への手紙が置いてあった。開くと、あなたが死ねというから死ぬことにします、という旨のことが書いてあって、それで、俺は、あぁ、俺は女を殺してしまったのだな、と思ったのだ。それで、そうして俺は罪償いのために、何かできることは無いかとずうっと考えていたが、しかし俺にできることは何も無い、強いて言うならば俺も共に死んでやることだが、女はもう死んでしまって、心中というには時間がずれていすぎる、それでは後追い自殺のようで、俺はあの女の後を追って自殺などしたくない、そうすれば俺という尊厳は失われてしまう。だから死なないで、何かできることは、と考えていた。考えても答えは出ず、ついには答えが無いのではないか、俺は何もできないというのが答えではないか、とある程度の結論を出したので、こうして帰ってきた次第だ」
「どうしようもない男だね」
「どうもできない男だな、この場合」
「それで、コーシは納得したのかい。その、何もできないということに、何もしていないという現状に、満足しているのかい」
「うむ、満足したといったらそうなのだろうな。それでな、ここら数日で、面白いことがわかった。だからこそ帰ってきた、帰ってこられたというのもあるのだ」
「面白いこと?」
「あの女、俺の他にも男がいやがった」
「馬鹿だね! コーシにもたくさん女がいるじゃないか。何を女の浮気なのを責められるんだ」
「ああ」
 それは忘れていた、とコーシは呟いた。
 コーシはどうしようもない男だった。
 それから、また僕の部屋をふらりと出て行って、もうそれ以来僕の前には姿を現していないのだ。
 それこそ、どこかで死んだのかもしれない。
 女のために。


渡り犬にも置くかもしれないが、なにぶん勢いで書きあげてしまって、書き終えた今、自分でもこれは何なのだろう、と思う次第なので、取り急ぎここに置いておく。
自分の文というものが、自分の分がわからないようにわからないでいる。色々と、思うままに書いてみて、一番向いている方向、書きあげたいものを書きあげてしまえるような方向に、行ければいいのだが。