中性潜在

僕はどうしても僕自身を否定したかったし、それによって別のものへの昇華を望んでいる。つまりは逃避願望とナルシシズムを飽くなきまでに追求した結果が、今ここ、俺の立っている場所だ。問うに落ちず語るに落ちるとは良くできた言葉で、三時間も四時間も、一人で話していれば、どうかしていない頭でもそうだと思ってしまう。誰しもに愛されたいと、ただただ単純にそれを言葉にする。俺に都合のいい人々を俺は愛してきたのだし、これからもそんなつまらぬ似非恋愛を続けていくのかもしれぬ。いつか、俺の友情は愛情に似ているといったことのあったかも知れぬ、やはりそれを思うのだ。抱きしめること、抱きしめられること、どちらも望む。それこそわかりやすく俺の中途さを示している。具体的には言葉にせぬよ、わかる人間だけが思ってくれればよい、これは私信に近い側面がある。俺の愛する人々へ、俺のこの欲望も絶望も伝えきってしまうために。あとは自己啓発だ、いつものな。
ぶっ壊してやろうとか、激情に駆られて良く考える。しかしね、そもそも、戦わずに生きることが俺の望んだものだったはずだ。過程が大事なのか、結果が大事なのか、先人たちがずうっと考えてきたことをまるで省みようとせずに俺は考える。セカイ系の青臭い中学生じゃねぇんだ、俺はよ、だけれども、考える。志向があるうちはまだ安全で、思考のなく、本能のなく、惰性だけで体の動く状態が危険だ。頭の中に何もなく体を動かすのは慣性に過ぎぬから、痛みなどまるで感じず、な、体中痛みなんてねぇよ。体が藁でできていて、脳が欲しい脳が欲しいと望むように。


つまらない話はね、あれはいけない。俺は面白いものを作らねばならぬ。形があろうとなかろうと、つまらぬものは駄目なのです。面白いということ、楽しいということ。悲しいということだとかね、辛いということだとかね、前述した愉快な気持ちと同じものだと考えてますよ。その真逆は、大体そう言っていいのかさえも見当のつかないのだけれども、言っていいのかわからないのだ、しかし言う、何も無い、どこにもそこらかしこに何も無い状態、それがつまらないと思うのだ。しかしつまらないことを作らねばらなぬとは思うのだ。つまらないものをいかに俺としてはつまらないままに、けれど俺の愛する人々に対しては面白くあるように、なんとか形作っていかねばならない。俺がそれを心底つまらなく思う、それを作る、けれど俺の周りの人々がそう思うかどうかは全く別物で、つまらなく思ったとしたら俺は酷く残念なのだ。