理論による暴力及び言語における凶暴性の発現

伝言、あるいは。
明日というのが今ならば、今日はいつなんだ? 疑問はいつまでも氷解しない。昔の俺ならば、今日など存在しない、などと極論することもできたのに。常識をまるで、あってないものかのように否定できた。周囲の制止が耳に入ることが全く無く、自らの偽善に誇りを持っていた、ま、今もだけどね。
他人を皮肉ることでしか、自分を表現することができない。他人を笑い上げることしか、自己の満足には繋がらない。他人を貶めることでしか、自己を進ませる手順を知らない。努力は嫌だ。経験なんて全くない。他人の絶望を感じる些細な心さえも、どうやら失われてしまっている。その上、自己を最悪だと思うことも無く、ただヘラヘラヘラヘラヘラヘラヘラヘラヘラヘラヘラヘラヘラヘラヘラと他人を嘲笑うことに時間を費やす。なぁ、もしかしたらお前は俺と変わらないのかもわからんよ、と言われることにただ恐怖し、お前は俺と違う、俺ぁお前よりもずっと崇高なのだと、確かな根拠のあるように叫び続けている。
大体ね、本当に、お前のこと、今これを見ているかもしれないお前のこと、そう、お前だよ、窓際の。考えたこと無いのだよ? お前の場所に立って考えたことも、お前の思考をトレースすることも、全く、無い。俺がかける励ましの言葉は全て偽りで、今まで、俺が見てきたお前への痛烈な批判だ。なぁ、今さ、頑張ろうとしてんのか? 本心からか? 踊らされてないのか? 本当にお前は、その場から、確固たる意志で動こうとしているのか? だったら、だったら、不言実行だよな、と思うのである。嘲笑われることを嫌うのなら、そんな姿見せなければ良い。ねぇねぇ、褒められたいのか? よく頑張ってるねぇ、と笑顔で言われたいのか? 調子に乗るなよ、お前の頑張りなんて大したもんじゃない。俺の頑張りが大した物でないように。自分で自分を褒めてやれよ。俺にそれを求めるな。俺はただの、ちっぽけな悪役である。銀幕の道化である。結局正義に勝つことの無い、作られたキャラクターなのである。
俺は俺の物差しでしか計らずに、お前を幾分かの躊躇もなしに否定する。俺をお前の物差しで測るなと俺が叫ぶのと同等に、お前も俺の物差しで測られたくないのだろうが、なにぶんね、俺はこのひとつしか持ち合わせちゃぁいないのだ。殴りたいんなら殴れば良いのだ、そんなもんじゃぁ俺の視線は何も変わらない。俺の痛みが少し増すだけである。それだけでいいのか? それだけをすることで満足なのか? 俺が死ねば良いのか? そいつぁもっともだ。
偽善は、偽善に終わる。善の素晴らしさは、果てしない。悪がさりげなくちっぽけ過ぎるように、俺という存在もどこまでも矮小だ、なぁ、もしかすると俺は偽悪でしかないのかね。だとすれば、場を引っ掻き回すことしか、それがのぞまれていないにもかかわらず、できはしない。許せとは言わない、ごめんなさい、と言う。ごめんなさい。これは、心からの言葉です。もしかすると嘘かね? 俺にもわからないが、すまないと感じているのは確かなので、ひとつ。