上と下への伝言として

和やかに、それに羨望のまなざしで上の方をただ見つめているだけの時代は終わった。シビアにリアルが見えるようになり、同時に天井も見えた。いきつくところはいまだ見えないが、どうせ、という思いは次から次へと。向かい合わせに、それも同時に、知らない振りをしているのを見ると、何かの冗談なのではないかとさえ思う。どこまで隠しとおすつもりなのだろうか、いつまで隠しとおしていると勘違いし続けるのだろうか? 傍観者がうつむくのは当然であるのに。見ていますか、貴方がたのことですよ。そしてもちろんおれ自体の。
この短い期間の中で、春が過ぎ、夏が見えず、秋も寂しげに去っていった。また冬がやってくる、という予感の真っ只中だ。痛い痛いと叫ぶ声も届かず、ただ広いだけの土地を眺め回すくらいしかできることがなくなってしまうのか。伝えたいことは、聞かせたい言葉は、いつも難しく言い過ぎて、届くことはない。同様に、伝えられた簡潔な言葉を、軽視し、迫害するのだ。把握はできているのだが、改善といったもの、どちらの方向に進んでいけば良いのか、が明確になることはけしてなく、細部ばかりが詳細になるのである。
行動もせずに思い描いてばかりいるような。何も考えずに一過性の色彩に身を晒すことの幸福感よ、どもりつつも冗談を言える環境よ、どうにも僕は執着のしすぎなのだろうかね。無音の瞬間をいつもいつも恐怖する感覚は共通してあるのだろう。誰しも持っているだろう物を、もしかしたら僕しか持っていないのではないかと、それとも僕は持っていないのだろうかと、思うことは少なくなったが、なくなることはない。それすらも事故となりうるということだろうか、そんな面倒なものは欲していないのに!
頑張って欲しいなぁ、とほほえましく見守っているときにも、自己の心配ばかりをしている。どうしようもなく、力量が足りない。技術なんて努力しろよと自分に対していうのももどかしく、結局はいつものような、なあなあの生き方を貫くのではある。流儀を曲げないこと事態は褒められたものではあろうけれども、腐ったものを信奉するのは全てに対してぶち壊しだろうね。