もんきー

やってみなければわからないじゃないかと叫ぶのと同等に、諦めてみなければ諦めた後のことはわからないのではないか? ただ、毎日を挑戦の連続で暮らすよりも、挑戦を放棄することに費やしていきたいと思っている。そのための努力を他のものにまわせよと言われることもしばし、放っておいておくれよと返すこともまた日常となってしまっている。
激情と絶望の間には非日常が存在しないように、切れた有線ネットワークはよほどのことでは繋がる気配を見せない。一匹の猿にでもなるように徹してしまうなら、周囲の模造品群だけでも退屈だろうが、素晴らしき偽者は、どこまでも綺麗過ぎる、圧倒される、やはり暇な時間は短く、一匹のapeとなるのは難しい。
昼寝のし過ぎで脳を痛める連続は、認識不足の非連続を呼ぶ。絶対座標が相対座標より便利なこともあるが、一般に使われるのはいつでも背比べだ。貸せよ、そのペン貸せよ、と上目遣いになることで笑われるのなら、俺にはキーボードで十分だ。しかし、十分だ十分だと叫べば、だったらsキーが打てないってのはつらいだろ、って話になるから叫びはしない。
少なくともハズレに遭いはしないという保証があるのなら、どんなにつまらないツアーだとしても、それにのっかってしまっても良いのではないかと思う。つまんねーことから楽しいことを見出すのはお得意だろ? それをさ、おれにいつも言ってきたじゃねぇか。間接的に頑張れという言葉はあまりにも届かなさ過ぎる。かといって、直接的過ぎれば煽りになろう。
そろそろ頑張れと自分自分に言われることには飽いてきた。さも壊れているように見せかけるのは、ただ気持ちいいだけで、禁欲生活には向かないさね。あと一ヶ月だ。とりあえずというだけの理由で続けられればと思うね。