文を書くに際して

自分にも出来る、可能である、と錯覚することが良くある。それ自体は、不恰好でまともじゃぁないものだとわかってはいるのだけれども、それが生み出す、なにか、決定的なもの、が欲しくてたまらないのだ。
文を延々と書いていたい。気づけば、つまらないストーリーを、模索して、空想して、あたかも、彼や彼女がそこにいるかのように、道路、街、あるいは、一本の街灯が、そこにあるかのように、感じている。一瞬あらわれる、光のような、いや、魔がさした、ようなものか、頭の中に突き刺さる心地よい痛みを、なんとか脳から引きずり出してやろうと、頭をふらふらと揺らすのだが、見えないものは見えないままで、ないものはないのだ、そんなことはわかっている、と呟くしか他に能がない状況に陥るのだ。
見えないものがそこにあるというのなら、それは、存在しないのだ、という単純な理論。
それならば、ね、僕にかかわってくる人間、もしくは、街中にあふれかえる音楽や、何気ない言葉までが、きちんと、それも整然と存在しているというのなら、僕が拒否したら、それらは、何気ない面持ちで消えてしまうのではないか。それこそ平行宇宙ではないけれど。
素晴らしい何か、何か、なのだ、ようは。それがどうであるか、どうなっているか、どうしたら、まったくわかっていない。それ以上に、わかるつもりもさらさらない。ただ、それがにじみ出て、文字になってくれればそれでいいのだ。繰り返すこのプロセスが、映画やなんかよりも重要かどうか、それは僕にしてみれば、くだらないとしか思えないけれども、もしかすると、この行為を好きな僕が、平行宇宙、か、そんなところに存在しうるというのなら、やってみなければわからないじゃないか。
理屈のない希望が嫌いだ。理由のない偽善が大嫌いだ。当たり前のことなのに、皆忘れてないか? 僕が間違っているのか? 当たり前だろ、僕が腐っている。だけどそれがどうしたっていうんだ? 僕がいくら悪いと自分を恥じても、つまらない偽善で僕はいっぱいだ。僕が僕が僕が、と叫ぶのは、金網をすり抜けていくほど実体がなく、水に解けて混じってしまいそうな、思念、理想、願望、を形にしようと静かに左目を殴っているからに他ならない。
人の美しさよ。善というものよ。まったく僕は信じているよ。
歌はどこまでも限りなく、声はいつまでも小さいままだ。だれにも届かず、落ち葉に埋もれてしまうばかりである。哀愁はもうない。僕の前の道は落ち葉で隠されてしまっているのか、もとからないのか。歩いてさえいないから、僕の後ろに道はないというのに。
ハッピーエンド、糞のような文章、ぶちまけて、悲惨な誰かが悲惨なまま、終わっていくユーモアを、信じようとさえ思うのだが、それは幻想で、それは幸せではない、不運である、とされてしまうのである。あぁ、つまらない世界よ、と自分に酔うことも必要とされているのか、稀代なるあの人は、切り裂くような冷たさと、少しのユーモア、それに、大胆に広げられたナルシズムの上に成り立っているだろうよ。だから好き、というわけではないのに問題がある、と提起しろ、と自分に言えば、答えさえ求めていないのに、具体的な答えが返ってきて驚くのであった。
彼女がそこにいるような感覚、いないのにね、呼び覚ますような文、書きたいのだ。僕がいつもいつも感じている期待感、顔も知らない人に味わわせてあげたいのだ。それはとても自分勝手で迷惑だろうよ、ナルシズムの上に成り立っている。脆弱な基盤さ。けれども、具体的な方法、見つからないから、それにすがるしかないのだ、と勝手に、他、を探してさえいないというのに! 結論づけて、苦笑交じりに評価されるのを望むのだ。
誰かにわかってもらおう、というのが根底にあると、陳腐になる。自分を表現したいと思うと、単純に、つまらなくなる。そのバランスなのか、もしくは他にスパイスが必要なのか、いや、大事なものが大きく抜けているのか、と常々悩み、文は進まず、既に作られているものを、また堪能する夜が続いている。