その場しのぎ

まったくそこそこのものを望む。
そこそこの空気とそこそこの風景と、そこそこの人生にそこそこの人たち。そこそこのロックンロールにそこそこの吐き気とそこそこの頭痛。そこそこの幸せとそこそこの悪夢さ。
今まで良かったこと、思い出、なのだが、それら全てを馬鹿にして、つまらないもの、必要なかったもの、と認識しようとしている。それはね、上にあがるためには、社会というものさしの値を増幅させるためには、格段便利なことじゃぁないか、と信ずるのだけれども、痛んで悼んで仕方がない。
昔の友人、女の子、今でも覚えている人はとても少ない。味気ない時間を過ごしてきたなぁと思うのと同時に、僕は嫌いが多いという根本的なことを思い出す。全てが嫌いで仕方がない。大好きだったものも、何とか嫌いになるように、工夫しているのではないか、自動的に、そうなりつつあるのではないか、と思い、戦慄し、何かを噛もうとするのだが、その場には何もストックはなく、いかれたイヤホンで、片側から音楽を聴くばかりではある。
あの子がやってくる、のか。
大好き大好き大好き、と、連呼するだけでよかった時間は過ぎ去ってしまった。物凄い勢いで剥がれ落ちていく落ち葉を、驚き、あるいは悲しみ、なんて素晴らしいものではない、もったいねぇなぁ、と思うだけの感情、と共に見つめながら、全てがまとめられて捨てられていくさまを想像して、全く何の感動も得られなくなる。
億劫なのだ、みながみな、と、いうか、僕自身が怠惰なだけだろうか。間違いなく後者なのだが、脳はそれを自殺だと思い、前者をかたくなに混入する。ぶっ壊せぶっ壊せと叫んでいた気持ちは、今はもう、やはりきれいさっぱりと、ただの更地となっていて、野球などする糞のような少年がいるのと、腐ったような色の小さな花が咲いているだけなのである。
後悔、後悔、懺悔、後悔、懺悔、後悔、後悔、懺悔、懺悔、後悔、後悔、後悔、後悔、後悔。かっこわるいことを繰り返し繰り返し、にやけた表情で、それでいて、自信などまだ持っているのか。
誰がそんなもの引きずり出してくるのかね? それは僕の内臓だよ。それは僕の脳だよ。そんで、それはもしかしたら僕の魂かね、ソウルかね、やー、かっこいいね、死ねば良いのに。そんなものもってかないでおくれよ、と叫ぶ声もむなしく、やはりその人に愛玩されるよう、続けるのだ、行為を。