もしかすると、どこにも、僕が探しているようなものは、何を探しているのかさえもはっきりとはしていないのだが、イメージ、どちらかというと、僕の持つ幸福感のイデアのようなものか、どこにもないような気さえ、している。
すばらしい時間はね、幸福な時間はね、これまでに数回はあったのだけれど、それはもう記憶、いや、素晴らしき、思い出になってしまった。きれいなだけの物語ほど、美しくて馬鹿げたものはないから、少しの痛み、少しの笑い、少しの恐怖、少しの不安、少しの憎しみ、むしろ少しの愛憎、なんてものをね、物語に付け加えてみたいとは思うのだけれど、もともとの美しい物語が、どうにも見つからないでいる。そこにたどり着ければね、やってやるという意思、やり切れるという自信、はなんだかんだ言っても持っているのだけれど。
最近の嬉かった瞬間、いくつかはある。けれどもね、それはいずれも瞬間で、連続しない。何度も何度も繰り返し、それこそ、今まさに思いついたように、思い返すのだが、つまらないものが繋がっているだけの存在が、空白を埋めすぎなのではないか、などと。それなのにね、楽しいことはいつでも不連続だ。持続、時間を延々と占拠されてしまうこと、おいおい、と思いながらも、身を任せること、それを、いつでも求めているはずなのに。
常にね、燃え尽きるつもりで生きていては、やはり夜が駄目だ、夜は駄目だ。燃えかすしか残っていない俺が、たくさんいて、そのどれもが苦笑いで、そのどれもが衝動的で、そのどれもが最低だ。駄目な俺がたくさんたくさんいて、どうしようもなくて、自分の部屋で、不必要な、無意味な我慢を続ける。
無意味じゃねぇよ、と毒づいてみるものの、まるでかっこ悪いね。切なさ、情緒は少しもなくて、原色の感情だけの権化だ。
今は耐えるだけならば、耐えうるだけの力をおくれよ。それがないのだから悩んでいるんだ、というわけでもないのに、それを欲する、それも嘘だ、たりない、俺には足りないものが多すぎる、そのくせ持っているものは多いと錯覚さえして生きていたいと思って、加速していく、減速しているはずなのに。
落下する記憶と、際限なく上昇していく思い出を眺めながら、停滞する俺は、わんわんと、ほえるしかないのかね? むしろ、にゃーにゃーと、甘えるしかないのかね? 両方嘘だよ。