溶ける唇と床のシミ

ここにはなにもないだろう。あの人に頼らないと決めたこと、いくらも前の夜じゃないだろう。死んだ犬が、その腐りゆく矮躯が、骨だけになりかけてもまだ吼えている、そんな俺だ。悪いときは終わったよ。怖いものは行っちゃったよ。悪いときは過ぎたよ。怖いものは行っちゃったよ。怖いよ。怖いよ。また怖いものがいっぱいやってくるよ。行列をなしてやってくるよ。あのくらやみのなかから。あの隙間から。見ている。どこかで俺を殺そうとしている。耽々と狙っているのだ。何処にも逃げ場はない。殺されてしまう。ころされてしまう。逃げないと。逃げ場はないぞ。逃げないと。ころされてしまう。
ぼちぼちおきてなにかをやれよ。
俺に正しいことを教えてくれ。殺したい気分であった。どうにも揺れ動いて、駄目だな、いつぞやのようなことにならぬように、だ。迷惑をかけてはいけない。心配をさせてはいけない。
殺したい気分だ。
あいつを殺さねばとしばしば思う。嫌いなのだ。心の臓から嫌いだと思うことは、俺は、初めてなのかもしれない。なんだろうね、気持ち悪いんだ。気色が悪いんだ。ぞぞ、と背筋の凍る。気持ち悪いよ。あっけないくらい嫌いなんだ。俺の、哲学に、美学に、反する。気持ち悪いな。近寄らないことにしようか。
俺はね、嫌わないんだ。嫌わなかったんだ。ずっとそうだった。嫌うことは、俺をその対象よりも上に置こうとする行為だ、それこそが下劣ではないか。俺は、自らをくだらぬものと捉え、また、その位置からできる限り下がらぬようにという思いでいる。下劣なのは駄目だ。だけれど、あいつは何だ、俗物じゃあないか。気持ち悪いな。物欲に支配欲、私欲の塊じゃあないか。吐き気がするよ。俺は、そう言って、そうさ、それよりも下劣なものとなる。
ぐるるぅ、と呻く。俺には言葉なぞ必要ない。俺ほど下劣な存在には、言葉などという高尚なものを扱う権利などないのだ。
ころされてしまうぞ。あれがやってくる。あのくろいやつがやってくる。愛とはそんなに大事なものか? 愛とはそんなに素晴らしいのか? 愛が何を与えてくれる? 居場所が欲しいだけだろう。都合のいい言葉を使って、不安を紛らわしたいだけだろう。つながらない。僕と彼女と彼と俺はつながらない。気持ち悪いだけ。そんな汚らしいものポケットにしまっておくれよ。嘘をつくなよ。あれがやってくるぞ。ぞろりぞろりと、くらやみからやってくる。ドアの向こう、カーテンの隙間、夜の街、声が出せるか? 俺の声はきちんと俺の声か? 俺の体はきちんと俺のものか? 俺の意識は、さぁ、食われてしまっていないか? くらやみはそこらかしこ、どこにだってあるじゃあないか。そこから生まれるぞ。あれがやってくる。黒い、暗い。見ている。目玉が、大量の目玉が俺のことを見ている。食うときを狙っている。
いや、見ているだけなのか。
見ているだけなのか。
見ている。
見るなよ。
目玉が、黒く、俺を、見るなよ!

「みんなみんな死んでたらどーする? こうやって、この部屋、ボブディランがアンプの中からわけわからないこと歌ってる、そんでそれを聞いてる、この場だけ隔絶されてて、取り残されてて、なんね、一歩でたら皆死んでんの。誰も誰も誰も生きてない。あんたとあたし、二人だけ生きてたら、さ」
「とりあえずあの子を犯す」
「死んでるんよ?」
「それでも」

犯したいものだね。


殺したい気分だ。今は、全ての美しい言葉は嘘だ。欺瞞だ。紫煙の必要だ。しかし、暗闇には何かが潜んでいる。
神聖化するのはもうやめか。あの人だって僕を救えはしない。一人で、どうにかやっていくしかないのだ。ありあわせのものでなんとかするしかないのだ。あの黒い奴に食い殺されないように、どうにか。俺を殺したいと、そう思っている女の子、ならば俺は救われるかな。刺されて完成するのかもしれない。それでも変わらないのかな。だったら食い殺されてしまえよ。
こんなにも胃液まみれの夜なのに、光だと言う。緑色。