平温と対価

相も変わらず何の変哲もなしに生きている、いや、何も変わっていないと言えば嘘になる。全て、だとか、完全に、だとか、そんな言葉で変化を肯定、否定してしまうことは欺瞞を含み、ひいては変化を望む、望まない内部衝動への抑圧をも意味する。俺は変わる。俺の好きだった人を想う気持ちは、あの夜を越えた後に少しは落ち着いた。俺は変わらぬ。俺の好きだった人を想う気持ちは、消えてしまうことはない。
俺は傀儡ではない。一己たる存在である。欠損ばかりの俺が寄せ集まって、なんとか人の形を呈しているだけではあるが、それでも俺は俺のことを時々素晴らしいと思う。自惚れにおいて言うのではない、俺は、俺の愛する人々に支えられている瞬間、確かに強くあるのだ。無敵感が確かにある。けれども俺は傀儡ではない。愛する人が俺を作るのでない。俺が俺を作る過程で、愛する人たちが必要であるのだ。この態度はけして不遜ではない。いつだって愛する人々へ感謝をしようと考えている。表層にね、出ないのだ、苦手なのだ。すぐに茶化してしまう。
愛しているよ、ありがとね。


反転することもある。
死ねばいいのだと、何度か思った。奴が、くだらぬこと、現状への不平や不満をのべつ幕なしに垂れ流し、けれど変えようという姿勢をちいとも見せないのならば、もうどうにもならず、どうしようもなく、存在自体を否定してしまうしかないのだと思っていた。妥協は醜いが、それ以上に醜いのが端からの諦めである。俺は、怒りさえ感じるのだ。
神父でも牧師でもないであろう人々に懺悔してしまえば、俺は、ふと、愛すべき人々に根本から幻滅することの、ある。時に極端なのだ。俺は真面目な人間などではない、不正に対して絶対的に自分を確証することもできない。けれど、突然に、自分の能力の欠如を棚に上げて、周囲の少しの矛盾も許すことができなくなることの、ある。揺らぐ。目に見えるものをあらかた否定し終わったら、結局は自己の否定に取り掛かるのだけれども。
簡単でないのだ。複雑なことがあふれている。本質は簡単なのかもしれない。難しく感ずるのは俺の矮小な性質によるのかも知れぬ。けれど、主観的には、やはり物事は酷く煩雑なのだ。俺は全ての人を愛したい。それとともに、俺は自己をごまかしたくない。ここで早くもずれが生じている。俺が最も憎む部分を、あいつのそれを、俺は認めなくてはならないのか。目をそらしたままの愛想笑いは嫌なのだ。大事なところで融通が利かぬ、冷静になりきれぬ。上手くやっている人々を、単純に凄いと思う。下を向いて乾いた笑いをするとき、俺はどうにも、自己から自己への圧力を感じてしまう。


とにかく、俺は何もかもを愛したい。そのために全ては行われる。


そうそう、mixiの方ね、復活したんでお暇ならこちらか左側からどうぞ。酷く下らぬことばかり書いておりますが建前と本性が混ざればああもなるさね。こちらもあちらも。
今度は必死に馴れ合うぞー。