『僕』

僕という女の子について。
僕と名乗る女子は、僕の知る限り、(一概には言えないが)同性受け(女性受け)がよい。例外があるとすれば、それはキャラクターを自分で作っている場合で、不自然である時、もしくは、『僕』という要素以外で好かれない部分がある時ではないか。
セックスはそのままで、ジェンダーが変更されることに、重きがあるのではないだろうか。僕という一人称は、文化的、精神的に性別を飛び越える、というか、男性側に傾かせる。それによって、ある種中性的といっても差し支えない雰囲気が生まれる(もしくは、男性的といった感じさえ与える)。自己の構成を変化させることにより、自己を自己でないものへと変化させ、自己とは異なった言語が話せるようになる。それはブンガク的であったり、セカイ系であったり、あるいは腐女子的であったりする(ただし、この場合は前述した、好かれない部分がある時、に該当することが多い)し、普通の話であっても普通でないようなイメージを相手に与え、ひいては僕という女子が普通*1ではないという印象を与える。
故に、僕と名乗るとき、セックスは捨てられる、わけではないが、確かに軽視される。男に媚びる女は、女の中で嫌われるのの逆で、セックスアピールの放棄(といっても全てではない)によって、女の敵対対象からは除外される、から、同性受けが良いのではないか。
男性的であればあるほどいいのならば、俺と名乗る方が男性的だろうが、俺と名乗る女子はこれまでにネット上では見てきたけれど、リアルでお目にかかったことは無い。絶対数*2はどのくらいなのだろうね。僕と言う女子よりも少ないのだとすれば、その中性さが大事なのだろうね。男性的過ぎてもいけない、という。
生活していく中、時間をすごしていく中で、僕という一人称は時に便利なのかもしれない。常に素晴らしいものではないだろうけれど。


余談。一人称の使い分けに主観的意義は無く、ただTPOに応じたものであるのなら、俺は、僕と名乗ったりしない、私、と言う。関係ないけどね。あと、昔俺の大好きなあの子は僕っ娘(僕女?)だった。今の一人称は、私、になっているけれど。どんな心境の変化があったのか聞くと、「自分で変だと思ったから」とのことだった*3

*1:数的な意味で無く

*2:田舎のお婆ちゃんは含めません

*3:だからといって僕っ娘の精神が未成熟という結論にしてはいけない気がするので余談に書いた