理論による救済及び言語における可能性の発現

さて、見ていないだろうがお前に語る。またしても、窓際の。
死にたいんなら死ねば良い。殺したいんなら殺せば良い。ただ、自分以外に迷惑をかけぬように。自分以外に少しの、心残りも、未練も、与えぬように。全てを完全に終わらせてからなら、別段何の、問題も。自分のみの世界で誰かを殺すというのなら、自分以外の自分しか考えることはできないのだが、ね。これは予断。
さて本編。
なぁ、お前は俺を元気だというけど、お前はあいつを元気だというけど、俺もあいつもお前程度には終わりかけているよ。ただ、鈍感か敏感かの差でしかない。お前は少し敏感で、どうやらつまらないものをつまらないと思えないようだ。すばらしいものをすばらしいと思えないのと同様に。ぶっ壊れるほどの快感はもうないか、もしくは感じても一瞬となってしまっているのだろう。部屋にこもった瞬間の安心と同時に襲ってくる重荷については、俺もよぅく知っている。けれど、どうやらお前は、理解されたがっているようだ。俺はお前を理解できない。同様にほかのものたち全てを、もなのだがそれは現在関係ない。
理解してくれと叫ぶのなら、それと同時に全ての努力を放棄するなら、お前は俺のステージに立てば良い。ここはあまりにも楽園だ。全ての重荷は無価値となり、突き抜けた快感だけが耳に残る。ただ、ここには心通わす生物なんていうすばらしいものは誰もいない。自問自答のみの生活だ。全ては自己の周りで起こっている一事象として処理され、全ての他者との関係は俺の周りを囲うものと他者との刹那刹那の接続でしかなくなる。どうにも、楽で仕方がない。
さて、ここへさえもこられぬというのなら、寝ろ。俺が、お前の場所に立っていたとき、俺は、俺の信ずる友人より、寝ろ、といわれた。寝るのが一番だ、と。なぁ、そこで俺は考えた。寝て起きて、また同じ明日が、来るのならば、新たな日々がやってくるまで寝続けるのみだ。それしかすべはなかった。ただ、日々の雑務は淡々とこなさねばならない。死を切望する時間も、衝動に胸をかきむしる時間も、前に過ぎ去った同様に、つまらないことをきちんとやっていかねばならない。それは義務だ、いや、ただの重荷だが、それを放棄することは、ただの絶望を呼ぶだけだ。わかりきった顔で言うな? わかりきったことをいうな? なぁ、だってさ、わかってねぇじゃんよ。気に障ったなら、謝る、ごめん。
だから、俺は、お前に、寝ろ、という。今日は寝ろ。休め。くだらぬことには耳を閉ざせ。何も見ず、何も聞くな。目は窓の向こうにそむけて置け。寝ろ。寝るのが一番だ。根本的な解決にはならぬ、改革でも改善でもない、けれど、軽減にはなるやも知れぬ。あの友人が、俺の愛する友人が、寝ろといってくれた瞬間の感動を、俺はまだ覚えているから、それを、お前にも言う。な、今日は、寝ろ。
きれいごとだらけで締めて悪いが、俺にはもう言葉はない。