波がある、わかるか、俺、多分、波がある。
どこから押し寄せてくるのか、そんなことは知ったこっちゃないし興味もない、などといきがってみるものの、どうにもあの人の絵に刺されているような気がして、嬉しくもあり、悲しくもあり、いや、やはり悲しいほうが大きいのだが、それがどうした、と言える気力も流されてしまっている。
いろいろな理由、事実、あるのだが、具体的なことはいえずに、自分にすら匂わせずに、いるのだろうか。いるの、だろうか? 疑問形が続いていくのなら、こんなものを書いている必要はない。必要もなく意義もなく意味もなく、という言葉、昔に飽きるほど使ったから、もう必要とはしていない。
全てを必要か必要でないかだけで判断していないか。
あの人は美しい。とても美しい。ゲロさえも美しい。なんていう吐き気さえもよおす言葉、僕は自信満々に吐けるのだから、よし、まだ吐ける。僕の吐く言葉がね、苺大福と鯖の味噌煮を食べた直後の寝ゲロ以下のものだったとしてもね、僕は喋り続けないと駄目なんだ。言葉をとめた瞬間、鬱になる。ゲロを吐きそうになる。なんだ、どっちでもゲロじゃないか。
最初の言葉、波で書き始めた気がする。
綺麗な言葉だけでつづれる物語なら、それはそれで素晴らしいのだけど、汚いことを書かないと僕ではないような気さえして、やはり、それは恐怖なのだ。それ、それ、それ、それ、どれだよ、吐き気がする。
わからないのにわかったふりするんじゃねぇよ、と自分に何度も言い聞かせるのだが、それはむしろ人に言っているようで、僕は酷い奴だ。くだらない自虐を何度もしている。嫌いだこんなのは、とも思うのだが、嫌いではないのか、ずっと続けている。嫌いなのだけれども、この不快な状態が心地いいのか。
不快な事は何度もあって、例えばお前といる時間なのだが、やはり大事なんだよ。へらへらと笑っている時間でさえも、うぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇうぜぇ!!!!!! と心の中で連呼している。だってうざいんだから。
結局は懺悔だ。
救われるなんてことをまだ信じているのかどうかは知らないけれど、ゲロを吐くように人が救えれば、だろ。