隠喩

二メートル先に物凄く美味しそうな(例えば人間の)死体があったとすると、それを食べるか食べないか、っていう意識上の選択肢が出る前に、あれ、何で僕、死体を美味しそうって感じてるんだろう、っていう疑問から入らなければいけないんじゃないのか。感じの悪いメタファーではあるけど、実際の話、ニヒリストの少年、ペシミストの少女、とりあえず傘の先でつついてから考えるんじゃないか? もしも例えば持っているものがゴルフクラブだったら、打撲してみてから考えるように。生きてるか生きてないか、という確認は、死んでいるという前提があるから意味をなさない。でも、そうせずにはいられないんじゃないか? オプチミストの僕としては、もし道に落ちてたらまたいでいくし、もし部屋にあったら自分の部屋の意外な大きさに辟易するだろう。といっても、アクチュアルな問題として『そこ』に死体が存在していたら、そりゃぁ驚くだろ、っていう話だ。君ら、死体触ったことあるか? 自慢じゃないが僕はない。人生経験のなさに閉口するけど、それはこの際関係ないことにするとして、君らがそのとき、もしも食べるという選択肢を選んだとしたら、味を僕に教えてくれるだけでいいし、感想をちょこっと聞かせてくれればいい。僕はそれを文章のネタにしようと思ってるんだ。ただ、これは一応メタファーであることを忘れちゃいけない。「したい、たべた」なんてメールが来たら僕、ちょっと泣く。それから、メールをくれたその人に会いに行く。「小説を書くからその話を聞かせてください」