時計紅茶

落としたものは僕の時計。時間がわからないことに戦慄する。時計のない彼女の家に、今、居るのは、恐怖と、安心と、弛緩した緊張感、そんなものが入り乱れて。いつまでもいていいんだろうし、いつかは帰らなければならない。だからどうだっていうわけじゃないから、僕はぬるくなったコーヒーをすすった。『あれ、ブラック派だったっけ?』『いや、我慢してる』貴方とあわせてるんだ。もともとコーヒー自体が好きじゃない。今、何時? そう聞けば、全てが終わってしまいそうで。違う、別の何かが始まってしまいそうで。いやおうなく巻き込まれる事実。時計のない貴方の家で、ぬるいコーヒーのような、流れていない時間を味わっていたい。いれたてのコーヒーは確かに不味くはないけど、ぬるくったって僕には同じことだった。軽いマグカップを上げ下げしながら、ゆれる焦げ茶の水面を見つめる。『紅茶、さ、好き?』彼女からの何気ない質問に『好き』とだけ答える。『次からは紅茶にしようか』『何で?』『つらそう、だから』『美味しいよ、コーヒー』『カフェインは紅茶のほうが多いんだよ』初耳だった。『多いほうが偉いわけじゃないでしょ?』一応の反論。『少ないほうが偉いわけでもないけど、ね』僕は彼女の動きだす唇を見ている。『でも、紅茶も飲みたいな、って最近思うから』『だったら次からは僕が紅茶、いれるよ』『助かる』彼女は、そう笑った。紅茶のように優雅なものはこの部屋にあわないかもしれないけれど、紅茶を優雅と思うくらいの僕には丁度いいかもしれなかった。この前落としたものは、僕の時計。ストップウォッチはついていなかったけど、別に必要だとも思わなかった。時計のない彼女の、この家で、紅茶を飲むことは、僕には楽しげなことに思えた。ただ、タバコと紅茶はすこし合いそうになかった、けど。