常に

あえて動作し続ける。かっこ良いか、かっこ悪いかという二元的な考えを抜きにしては語れないだろう。それをするのがかっこ悪いことはもちろん僕は知っている。でもさ、それがかっこ悪い、というのを気にしてその動作を止めてしまうのは、もっとかっこ悪いんじゃないかという恐怖、むしろ雑念、に、囚われてます。ただ、そう、この文、それさえもかっこ悪いけど書き留めておかないと忘れてしまいそうなのです。僕がそういう雑念に囚われているという事実、いや、僕がそういう雑念に囚われていると自分で信じ込んでいる事実、そういうことを一瞬でも忘れてしまいそうなのです。歩いている間、本を読んでいる間、お気に入りの歌を大音量で脳に垂れ流している間、馬鹿みたいに笑いながら『今日の夕飯なんだろう』と考えている間、くだらないそんな時間さえも、今まさに脳に流れている微弱な電気信号を流しておきたいのです。自分を保つということ、それにさえ囚われているのかもしれません。むしろそれを脱却したいがために僕が脱却できないでいるのは、あえて動作し続けるということと同等の、いや、少しニュアンスが違う、例えるとアイソトープのような、同質のものなのかもしれません。『だからこそ僕はあえて動作し続けるのさ』なんてかっこ良い台詞を、僕がかっこいいと思っている台詞をはくつもりはありませんけれども。僕がなりたい僕に僕はなりたいんだけど、そうなりたいが故にそうなれない、なんてそういうお話。