HIKIKOMORIwithDOG

ぶち壊しだ。
ひとつのことでとてつもなく鬱になる、そして、それが僕の、もしくは僕の内部を決める因子か何かのデフォルトになりつつある。太宰を読んだりとか、武者小路実篤を読んだりとかで、センチメンタリズム、むしろ独自の厭世観というべきものか、に侵されるなら、それはそれで良い。けれども、日常の、とてつもなく普通で仕方のない、例えば会話の中での少しの沈黙だとか、例えば自分に出来ない他人の行いだとか、そういうものを感じたときに、とてつもない重力がどこかからやってくる。それが自分の心のうちに起因するものか、外側、しかも見えないところから起因するものなのか、はたまた杞憂なのか、と考えて、どうにも疲れて仕方のない時間をすごすのだが、どこかからかのケーブルからやってくる、とんでもなくマニアックな映像を見ながら、どこかからかの電波に乗ってくる、とんでもなくポップでエレクトリックでレトリックの施されたブギーな曲を聞きながら、嗚咽して、どうしよう、どうしよう、どうしよう、と捨てられた犬のように、うわごとのように呟きながら、部屋の隅で小さくなって震えているよ。
ロックンロールが必要だ、いわゆるロック。それは鍵でもあって、あぁ、今上手いこと言った。自分に安心する、それと同時に、倦怠感、痛み、自分勝手な辛さ。来いよ来いよ、と呼ばれることに慣れすぎていて、自分が呼ぶことに慣れていないのはもちろん、ついていけないことにさえ恐怖を覚え、少しでも遅れているのなら横の、もちろん少し前にいるのだが、その場にいる人間をひきずって殴ってどうにかしようとしている。
一方的に、それも、散文的に、まくしたてていくしか、この当たり前の感情を表現は出来ないのだろうと信じてはいるのだけれど。
銃声、血飛沫、鍔迫り合い、そんなものは映画の中にしかなくて、そう、僕のかっこいいと感ずるものは、他人の創造の中にしかない。それをどうにかして、自分で生み出してやろうと、自給自足さ、そんな満足な状態にしてやりたいと、一刻も早く、と思い、必死に腕を振るのだが、多分に前に進んではいない、当たり前だけどね。
目の前の人間に、意味のない、意味なんて自分の決めることだけど、一般的な感情としての意味のなさを覚える、憎しみや怒りや馬鹿げた恐怖! を信じ込んで具体化してしまうこと、の回数は減ったように思える、でも、本当に良くなったのか、むしろ、一度一度が深くなった、一度一度が酷くなっている、と自問自答する毎日ではある。