プチ引きこもり

どうかしてる。色々なものに対して飽きを覚える。巨大な渇望、いつまでも満たされないという錯覚の果てにあったのは、どうにも、いわゆる厭世観、侘しさ、に近い飽きだったらしい。
人に飽きる。この前まで挨拶をしていた人間が本当にどうでも良くなって、惰性、むしろ記憶にある自分の姿をリピートして、対応していく。さっきまで横にいた人間でさえも、つまんねぇ、と一人愚痴るような形で、少しずつ、時には大きく嫌いになっていく、というか、興味が薄れていく。テレビがつまらなくてラジオがつまらなくてインターネットがつまらなくて、間接的なものは駄目だ、直接的に行かないと、と思うのだけれど、直接的に表現されたもの、さえも、重々しく荘厳でいて、扱うには重すぎて、辟易する。
期待通りに行かないなんていつまでたってもある問題なんだろうけど、いつまでたってもあるんなら、全てがどうでも良くなって、言い訳だけを口にして、面倒なので嫌いな人間の前でハッピーに振舞い、面倒なのでどうでも良い人間の前でハッピーに振舞い、面倒なので好きな人間の前でハッピーに振舞った、その好きな人さえもどうでも良くなりかけている。
あの人の好きには僕がはいっているのかを悩み、嫌々僕の隣にいるんじゃないかと思い、何がストレスなのだろうかと悩み、目の前の人間に八つ当たりして、少しずつ嫌われているなぁと思い、いつしかどうでもなくなってしまうのかと悩み、恋愛感情ではなく好きである、そういう人につまらないと思われることに恐怖を感じて、一人黙々と語り続けている。笑っている時間は常にそうである、とはいかない一貫性が、嫌いなので、ぶち壊したいのだけれど、ぶち壊して、壊れた瓦礫だけになって、その中から、お得意の言い訳だけが出てきたら、嫌だ。嫌だ。嫌、という単純な、子どもらしい感情が、その字だけ、が思い浮かび続けるような、理論じゃないんだ。
身内にこれを読まれることで、僕というものから、何かが剥がれ落ちて、貴方がたが僕から離れていこうと思うのなら、それでも良いと思える自分はいるし、諦め、やはりカタルシスに近いナルシズムで、僕は高揚する。
でも、高まることなんてなく、見たことのある昔の風景を、何度か繰り返して、そういう気分になっているというも像部品を作り上げるばかりだ。結局、飽き、なのである。
前と同じ事をして高まれないということは、いつも何かを壊していかないといけないということなのだろうけれども、壊すのが怖いという保守の気持ちから、それ自体をためらっているのでは、事実、自分のせいであるし、その事実に対しても、いつものことだ、という思考しか出てこない。